クロマトグラフィー100年 (2003年)  

クロマトグラフィーの創始者 Tswett


はじめに

現在の分離科学において中心的な役割を果たしている液体クロマトグラフィー。この手法が考案されて,今年(2003年)はちょうど100周年にあたります。

「クロマトグラフィーの父」,ロシアの植物学者 Mikhail Semenovich Tswett (1872-1919)は,1903年に吸着剤による植物色素の分離実験を学術報告しました。

クロマトグラフィーの原点の人,Tswett (ツウェット)は,「炭酸カルシウムによってクロロフィルを分離した人,クロマトグラフィーの創始者」として知られてはいますが,詳細な研究過程や生涯についてはあまり報告されていません。

すべてのクロマトグラファーにとって記念すべき年にあたり,Tswettがどのように研究を進めたのか,そしてどのような生涯であったかを調べましたので,ここにご紹介します。



Mikhail Semenovich Tswett


Copyright: Imtakt Corporation
Courtesy of
Dr. Olga Timonina, SBS2003, Russian Academy of Sciences

Tswettのクロマトグラフィー業績

クロマトグラフィーの誕生日

1903年3月21日。私たちクロマトグラファーにとって歴史的な記念日です。この日,Twsettは今の液体クロマトグラフィーの原点となる講演を,当時ロシア領であったワルシャワ(現ポーランド国)にておこないました。のちに「Tswett Method」と呼ばれる分離手法です

[Tswettの最初のクロマトグラフィー報告, 1903年]


(On a new category of adsorption phenomena and their application to bio-chemical analysis )

研究背景

1860年代から植物学者による葉緑素の研究が始まりました。分光学的な研究もおこなわれていましたが,緑色をしたこの葉緑素は,どうも単一成分ではなさそうである,という学説が有力になり,1890年代には多くの学者が葉緑素研究に没頭しました。
植物学者のTswettも以前から葉緑素に関する興味があり,成分研究を進めてきましたが,葉緑素が複数の成分から成り立っているのであれば,なんとか分離する方法はないだろうか,と考えるようになりました。

クロマトグラフィーのアイデアは「ろ紙」から生まれた

当時は液-液抽出によって葉緑素成分を分離する方法が盛んであり,Tswettも各種溶媒に対する溶解性を検討していましたが,ある時石油エーテルとアルコールに溶解した葉緑素にろ紙片をつけると,着色物質はろ紙に「吸着」することに気がつきました。今で言うペーパークロマトグラフィーの始まりです。溶媒をアルコールに換えるとこれらの吸着した色素は抜け落ちます(溶出)。

「ろ紙(セルロース)には葉緑素を吸着する力がある」と考えたTswettは,このヒントを元に,いろいろな粉体を使ってこの「吸着」現象を確かめてみることにしました。たとえば,単体元素(S, Si, Zn, Fe, Alなど),その酸化物(SiO2, MgO, MnO2など),水酸化物(B(OH)2, NaOH など),無機塩(NaCl, MgSO4など)です。炭水化物や蛋白質も試しました。総数は100種類以上にも及びます。そして検討粉末の中には,現在の充てん剤の主流であるシリカゲル(SiO2)も含まれています。
検討の結果,葉緑素の吸着剤として適当な粉末(担体)は, 炭酸カルシウム(CaCO3),イヌリン,砂糖であったとしています。とりわけ「炭酸カルシウムを用いるとたいへん美しいクロマトグラムが得られる」とTswettは述べています。

Tswettによる世界初の液体クロマトグラフィー

選択した分離担体を用いて実際の「分離」をおこなう方法を考案しました。右図のように,先端を絞ったガラス管(カラム)に充てん剤(CaCO3)をガラス棒で細密に充てんし分離カラムを作りました。これをフラスコ(ドレイン)に固定し,上部には展開液(移動相)をのせるガラス容器(リザーバー)を取り付けました。これが世界初のクロマトグラフ(装置)です。

葉緑素の二硫化炭素抽出液をカラムに注ぎ込み吸着させました。
次に各種溶媒を流し込むと,それぞれ異なる色素が溶出しました。
アルコール,アセトン,アセトアルデヒド,エーテル,クロロホルムなどの比較的極性の高い溶媒はすべての色素を溶出させました。 石油エーテルやベンジンは黄色いカロテンだけを溶出させました。また, ベンゼンやキシレン,トルエン,二硫化炭素は中間的な挙動をとりました。今で言うところの「順相クロマトグラフィー」の原理そのものです。

また二硫化炭素を移動相にすることにより,右図のような分離が得られた,としています。「アイソクラティック溶出」の始まりです。さらには石油エーテルから石油エーテル/アルコールの「ステップワイズグラジエント」もおこなっています。

溶出した色素は,分光学的にスペクトルを取り,それぞれの物質を同定しました。いくつかの色素はTswettによって命名されました。現在の「分取クロマトグラフィー」による物質精製と構造決定をTswettは初めておこなったことになります。

Tswettは分離の方法だけでなく,装置の工夫も検討しています。
分離を高速化するために,リザーバーを加圧する工夫も考案しました。現在の「フラッシュクロマトグラフィー」は,すでにTswettによって完成していたということができます。この他,分離の作業効率を高めるために,カラムを並列に接続し,同じ溶媒を一度にたくさんのカラムに送り込むことのできるマルチカラムシステムも考案しています。

そして1906年の論文では,Tswettのクロマトグラフィーに対する興味は葉緑素だけにとどまらず,lecithin, alkannin, prodigiosin, sudan, cyanin, solanorubin にも適用したと報告しています。葉緑素の研究者だけでなく,世界最初の分離科学者でもあるわけです。






Tswettのクロマトグラフィー

Tswettは,これらの物質分離方法をクロマトグラフィー(  ),分離された色素の展開状態をクロマトグラム(  )と名付けました。 私たちが日常使っているこれらの用語はTswettの命名によるものなのです。

このように,100年経った現在でも通用する物質分離手法を生み出したTswettは, のちに「クロマトグラフィーの父」 と呼ばれるにふさわしい輝かしい業績を残しました。

業績の評価

Tswettのクロマトグラフィーは,いうまでもなく,現在の分離分析手法の原点となっています。特に欧州ではこの業績が高く評価されています。 1918年にはノーベル化学賞の候補にノミネートされたほどです。
近年,FECS ( Federation of European Chemical Societies and Professional Institutions ) が発表した,20世紀における著名な100人のヨーロッパ化学者の一人として,デバイやキュリー夫人とともにM.S,Tswettの名が挙げられています。

[参考URL]

http://www.chemsoc.org/networks/enc/fecs/100greatest_20th.htm


Tswettの生涯

 
1872
5月14日,北イタリアの Asti村に生まれる。父 Semen Nikolaevich TsvetはロシアKamenets-Podolsk州の領事。三番目の妻であるMaria de Dorozzaが母。イタリアGenovaからの旅行中の立ち寄り先ホテル "Reale"で誕生。 
 
1881
Lausanneの the Collage Galliard に入学 。 
 
1887
Gennovaのthe College St.-Antoineに入学。 
 
1891
Genova大学にて生理学,天然物化学を専攻。1896年卒業。 
 
1897
ロシア科学アカデミーにおいて植物生理学の研究を開始。St.Petersburg Biological Laboratory において植物学の講師に採用される。 
 
1898
葉緑素とヘモグロビンに関するTswett最初の論文を発表。 
 
1902

Warsaw University(当時ロシア領)の植物学講師として異動。

 
 
1903
3月21日。Warsaw Society of Natural Scientists学会の植物学分野で,記念すべき最初のクロマトグラフィー手法を発表。 
 
1906
クロマトグラフィー手法に関する2論文において,「クロマトグラフィー」という用語を発表。 
 
1907
9月16日, Elena Aleksandrovna Trusevich (1874-1922) と結婚。 
 
1908
Warsaw Polytechnical Institute へ異動。  
 
1910
「植物・動物界における葉緑素の研究」でWarsaw Universityから博士号授与。 
 
1911

the St. Petersburg Academy of Sciencesから M.N. Akhmatov Prizeを受賞。

 
 
1917
Yur'ev Universityの教授に就任。 
 
1918
ノーベル化学賞にノミネートされる。 
 
1918
Voronezh大学へ異動。 
 
1919
6月26日,心臓病で死去。Voronezhに埋葬される。 

おわりに

世界最初のクロマトグラファーであるTswettは,分離の最適化をめざして実に多くの固定相や移動相の検討をおこないました。最適な分離を見つけることの難しさは,今のHPLCでも同じことです。世の中に1000万以上存在する物質を分離するためには,固定相や移動相の選択がたいへん重要であることを,最初からTswettが教えてくれています。
クロマトグラフィー手法は100年経った今,いろいろな分野で華々しく活躍しています。この方法はおそらくこれからも長く必要とされることでしょう。 Tswettの努力と成果の上に始まったクロマトグラフィーは,今後さらに改良され,優れた分析方法としてますます発展していくことが期待されます。

世界最初のクロマトグラファーであるTswettは,分離の最適化をめざして実に多くの固定相や移動相の検討をおこないました。最適な分離を見つけることの難しさは,今のHPLCでも同じことです。世の中に1000万以上存在する物質を分離するためには,固定相や移動相の選択がたいへん重要であることを,最初からTswettが教えてくれています。
クロマトグラフィー手法は100年経った今,いろいろな分野で華々しく活躍しています。この方法はおそらくこれからも長く必要とされることでしょう。 Tswettの努力と成果の上に始まったクロマトグラフィーは,今後さらに改良され,優れた分析方法としてますます発展していくことが期待されます。

[参考文献]
(1) Evgenia M. Senchenkova, Michael Tswett - the Creator of Chromatography, Russian Academy of Science, 2003

(注: 2004.5.25 )
「Tswettの生涯」の欄において,過去 Tswettが「ロシア人の両親のもとに生まれる」と記述しておりましたが,津村ゆかりさんからの指摘(http://www5e.biglobe.ne.jp/~ytsumura/buns0017.html)により調査したところ, 「ロシア人の両親」という表現は不適切と判断し,これを削除しました。

以下調査結果を記載します。
Tswettの父である S. N. Tsvetと母であるMaria de Dorozzaが結婚により,両者ともロシア国籍を所有しているものと信じていましたが,婚姻届けが出されていたかどうかの確認が得られませんでした。父Tsvetには5人の妻が存在し,Mariaは3人目とされています。彼女をイタリア系とする文献もあるようですが,名前からはDorozzaという姓はイタリア系でもスイス系でもないという指摘もあります。
彼女はMaria Nikolaevnaとして1846年にトルコで出生しているようです。彼女の父親Nicholasがイタリア人であったかどうかの確認は今回できませんでした。また,MariaにNikolaevnaと分献上のDorozzaという二つの姓が存在する理由もわかりません。
Mariaがいつロシアに来たかはわかっていませんが,ロシアにおける後見人は Mikhailovich Zhemchuzhnikovという人で,この人がTsvet と知り合いであることからMariaとTsvetが出会ったようです。

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(文責:矢澤  到, 2003.8.15)


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