今年2003年は,クロマトグラフィーが生まれてちょうど100年にあたります。 世界中の何十万人というクロマトグラファーにとって記念すべき年です。現在の物質分析で不可欠なHPLCの原点がそこにあるからです。
クロマトの原点を作った人,ロシア人 M.S.Tswett の業績を知ることは,カラムを作る立場として重要なことと常々思っていました。今回モスクワにおけるTswett記念学会に参加することができ,Tswettについて多くのことを学ぶことができました。
ロシア名は Михаил Цвет。英語名は Mikhail (Michael) Tswett。日本名は定かではありませんが,ロシア語で発音するなら「ミハイル・ツウェット(ツヴェット)」ということになります。
Tswettが初めてクロマトグラフィーを提唱したことや,その分離が葉緑素であったことは一般に知られていることです。 彼の業績や生涯については,弊社サイトに掲載しましたのでご参照ください。
彼の調べてみて印象に残ることは以下のことです。
■Tswettの業績のきっかけはろ紙であったこと
葉緑素の分離のヒントは,彼がろ紙に吸脱着させたことにあります。彼のことを書いた報告では,いきなり炭酸カルシウムの分離材が登場しますが,最初の思いつきはろ紙に吸着すること,そしてそれがアルコールで脱着すること,にあります。彼はペーパークロマトグラフィーの生みの親と言えるかもしれません。
■葉緑素という幸運
分離対象が葉緑素であったこと。これは可視光を吸収する有色の物質ですから,検出は肉眼で可能なわけです。もし彼の対象が無色のカフェインやタンニンであったら,吸着現象は見落としていたかもしれません。
■地道な固定相探索
研究者にとっては当たり前のことでしょうが,彼は実に多くの分離材の検討をおこなっています。一般には炭酸カルシウムで分離したということになっており,確かに彼もこれが葉緑素分離にはいちばん良かったとしていますが,この結論に到るまでに,100種類以上の粉体を実験しています。今最もよく使われているシリカだけでなく,変わった物としては,金や砂糖,イヌリン(多糖),蛋白質なども検討されています。
■分離装置の工夫
カラム分離は一回に一度の分離しかできません。たくさん葉緑素にいろいろな固定相開発には時間がかかります。彼はひとつの溶媒でいくつものカラムを同時に展開でしるマルチカラム法を考案しています。これによってたくさんの固定相のスクリーニングが短期間にできたと想像されます。
■クロマトグラフィーやクロマトグラムも彼の命名によるもの
筆者は後生の研究者が彼を記念して名付けたかと思っていましたが,論文中で彼自身が命名しています。
■Tswettは学術的には不遇であったか
Tswettの業績は何十年も評価されなかった,という文を見かけることがありますが,少なくとも生前の彼が不遇であったとは考えにくいのです。その証拠に彼は没する前年,1918年のノーベル化学賞候補に挙げられています。
彼の不遇は,むしろ体制的なものかもしれません。1914年,第一次世界大戦が勃発した結果,渦中のロシア帝国はドイツ軍に大敗し,そしてレーニンが1917年にロシア革命を起こしてソビエト社会主義共和国連邦を誕生させました。激動の戦時下や革命の中,当時ロシア領であったワルシャワにおけるTswettの身にも何らかの影響があったのではないでしょうか。自国の体制が劇的に変わろうとしている時代に平穏に研究活動を続けることの難しさを想像します。
クロマトグラフィーの誕生は,分析科学者による物質間相互作用の理論から始まったものではなく,植物学者の興味と地道な努力から生まれた結果であったところが興味深いところです。まさに「必要は発明の母」というわけです。そしてクロマトグラフィー誕生の裏には,世界戦争や国家革命という歴史の大きなうねりが存在していたことも忘れることができません。
カラムを作る立場に立てることの幸せと責任を痛感する日々が続いています。平穏な毎日に感謝しながら,良いカラムを作るための地道な努力の必要性を,あらためてTswett先生に学びました。
(矢澤 到)